The memories “YUKARI NISHIDA” #7 Final 躍動と軌跡

西田由香里がこの世を去って21日。
死は、ともすればすぐそこにあるもの。
かといって行こうとしても、当然だけど、おいそれとは簡単にいけないところ。

第一報のはいった2・10夕刻、いつもの様に、”イラつく返し”がイヤで(笑)、それでいて、平易なメールを彼女にした。

そのときわたしは、家族と10年ぶりに山口県宇部市にある奥さんの実家にいた。宇部から70㎞離れた下松笠戸島にて、
3年半ぶりのトレイルランレースを走ったあと、ビールで乾杯したそのとき、友人の大谷氏から不確実で、
どこかもどかしい電話をもらっていた。

すぐさま、「誤報かもだけど、山でなんかアクシデントあった??」と西田由香里にメッセージ。
「はぁ~っ!?」とくることをいっぽうで望んでいるも、来たらやはりイラッだろう。

さて、
“追悼、山のマイベストパートナー西田由香里 The memories “YUKARI NISHIDA”

とタイトル掲げ、7回の投稿をしてきた。オマケふくめればさらに大量の思い出もふくめてだ。
いきおいやることについては慣れてるが、事情やコミュニティやディープな生活と家族のこととか、知れば知るほど、
なにもやらないことが、ある種おさまりが良いことも知っている。

ただ、いまさら無難をやるタイプでもないし、いつものことやるのみ。

2011年11月、「脱線を好む人生だけど、ひきつづき人生やるべく山のWEB-TVはじめるから、いっしょにやってくれないかな」
ゆっくりとうなずく山岳女子アスリートとの下山後、さらにつづける。
「家庭のある男女が山で、しかも下火な動画でチャラチャラと発信していくって、誤解ふくめ大丈夫かい?」

OKでーす!
通らない声だけど(笑)、自信に満ちた返答だった。
「わたしはレースを選んで頑張ればよい。しかし、ゆうさんのゼロからなにか作るってすごいと思うよ」
その言葉は、じつはいまも励みにしているし、ある意味で呪縛でもある(笑)

しかしその度胸というかノリ、へぇ~、こんな人いるんだ、と運命を感じたのだった。
こんな人、さがしてもいない、と。

さて、とくに2011~2015年まで、山岳系ハイパーエクストリーム的スタンスでの男女動画発信というくくりでいうと?
当初は、WEB-TV(Mt-channel:やまちゃん。2011-2018で一旦は終了)をベースにエヌダ(西田由香里)は、TJARなどでの
活躍もふくめて、業界では広く認知されはじめたのは周知のこと。

そこで、ちょっとおかしいと思わないだろうか?
山のベストパートナーといってるわりに、2015年を境に共同の登山数が激減しているし、SNSのタイムラインから姿を消したことを。

端的にいうと、
私ゆうじんが、命をかけてプロ化するべくやってきたWEB-TVとの大失恋(番組制作者内でのビジョンの相違が生じる)
私(西田)もいつまでこうしていられるか(活躍)わからないのに、なにをもたもたしてるのか?
たまたまか体力的・モチベーション的ピークを一旦おえた2人
あらたな登山スタイルやラジオなど発信方法を求めはじめた私
西田の体力から徐々に遅れをとるゆうじん
そんなとき新たに子供を宿していた西田由香里

そんな2015年の晩秋だった。



そもそも、活動のベースでもあるWEB-TVは、西田由香里&ゆうじんの山岳スピード系ニュージャンルと、ハッシー&カトリーヌの本格アルパイン、
という双璧が、あたかもパラレルしつつゴールのないどこかに向かって、ときに登り、ときに滑り、をくねくねしつつ彩っていた。
2014年夏、西田由香里がTJAR(※他参考)というレースを完走したときが、そのピークだったようにおもう。

以下は、ふだんはレポーターである西田由香里が、直接出演したときのMt-channel:やまちゃんである。
またゆっくりご視聴いただけたらと思います。


51st Mt-channel:やまちゃん


40th Mt-channel:やまちゃん


27th Mt-channel:やまちゃん

さて、そのターニングポイントになった2015年秋から約3年半たった2019年初頭、西田由香里は天国へいくわけだが、
ちょうどその一年前くらいだろうか、Nto(2016年に生まれた二番目の男児で、いま2歳半くらい)みててやるから、SKIMOトレする?
にすぐさま乗ってくれて、北ア常念山脈の展望のよい広場にてまったりと焚き火タイム。(まったくSKIMOトレじゃなかったが…笑)
やはり満足いくトレーニングはできず、これも追々ね~なんて
※こんな焚き火を出産後たまにやってたっけ


大人になってからの付け焼刃で、この世界で活躍するなんて…という評判をある意味ではねのけて、
とにかく彼女はひたむきに自分のやるべきことをやっていたように思う。
※私ゆうじんの生きるテーマは、自分の使命をみつけてそれに従って全うすることだから

死人がでてもおかしくないような嵐のなかはじまった2014年のTJARを、ボロボロになりながらも女性史上3人目で完走。
メディア、SNSなどをとおして伝わった。そう、西田由香里は着実な一歩一歩の甲斐もあって一躍、陽のあたるステージへ踊りでた。

プロデュース的立場でペアを組んでいた私への、新しいスタイルのスポンサードのオファーもいただき、ようやく手につかみかけた
SOMTHING NEWに対する一つ結果がではじめたときだった。
ただ、ときは無情にもようやく達しえた、さあこれからというその時、私を突き放したのだ。

いっぽう、西田由香里。第二子の出産、それを以前から切望していたとはいえ、アスリートとしてはかなりの遅れをとった焦りや葛藤。
やれどもやれども、戻らない体力やキレは、長らく踏んでいる慣れ親しんだ自分のフィールドが無情にもおしえてくれる。
かといって山で躍動することは、まさに彼女にとっては、家族や自身にとって、なくてはならない大事なピースであったように思う。

現に、ここ最近は家族に対する感謝のキモチをつねに述べていたし、とても幸せそうだったように思えた。

再び、2019年2月10日のコト。
私は、昨年2018年10月に自分で初主宰したイベントへ彼女を招待し、そのときに話したコトを反芻していた。

「来年4月から、Ntoが保育園にいくの!!」その晩は、車中泊でNtoと過ごしてくれたとのことだった。
さらに翌日のメール、「あす、紅葉みに雨飾山いくけどいっしょにどう?」
後処理があったので残念ながらお断りしたが、あらたな計画が自分のなかでまたスタートしたときだった。

お互いまたすこし大人になって、かといって刺激をたずさえて走りだすこと。あらたなSOMETHING NEW…

2019.2.10は、そんな止まった時計を3年半ぶりにリスタートするべく、私は友人である奥宮俊祐プロデュースの
トレイルランレースに、ショートで参戦したのだった。

奇しくも開会式がスタートする2.10,午前8時頃(注:0745から訂正)、西田由香里は”風”になるべく、今生に別れを告げていた…。

えーーーと、第2章スタートするから、よかったらまたいっしょにやってみないか?

私は、WEB-TVに別れをつげたときと同期してる、西田由香里とのエンターテイメントへ熱烈なおもいでいた。
ただ、その思いを告げることはなかった。
「すぐに言ってよ、オセーヨ」と、とおらない声で返ってきたかもしれない。


※3/1西田家にて。とにかく上の娘さんが幼稚園へ行っていた頃、間に合わない!といって下山後にそのままお迎えに付き合ったり、
また、大事な山のパートナーが産んだ第二子の快男児。2人とも私にとって可愛くないはずがない

“事故の後処理、家族のこと、こちらで出来ること、そして西田由香里の躍動など、まだまだアナタ様に関するタスクは尽きない様です。
また、幼子のこととか…。自分の使命を全うしたアナタ様が先に天国へいったこと、正直いって、ヤラレタなと思ってます。
ただ家族のことさぞ気がかりだったにちがいない。だってそれを中心にあらゆることが回っていたのだから。
おそらく私は残りの人生で、あと何千回か何百回か何十回か存じませんが、山に登るたびにそのつど、アナタ様を思い出すことでしょう”

さ、ひきつづきやること、具沢山だな(笑)

いつも読んでいただきありがとうございます☆これにて追悼記事を一旦おわりにします。
※ただいま、2019年3/15発売の、山と渓谷へ執筆してます。
その後、場合によっては本の出版ももしかしたらあるかもです。そこは期待せずお待ちください^^

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